コンテンツへスキップ

73

8月15日は終戦記念日です。今年は戦後73年になるそうです。

毎年この時期、この日には、テレビで戦争に関わる映像が映し出されます。映像と一緒にいろいろなコメントも耳に入ってきます。
「戦没者への悼み」そして「平和への願い」「二度と繰り返さない戦争」もっともな意見で何の異論もありません。
戦争という不毛な営みで失ったものを考えると、ほんとうに当然のことだと思います。

ただ、毎年このようなコメントを聞いていると、最近になって少し違和感を覚えるようになってきました。
日本の「終戦」は「敗戦」です。戦争を始めそれを推し進めた時代が間違いなく存在していました。そして「広島、長崎への原爆投下」「無条件降伏」となって、戦争は終わりました。
なぜ戦争は始まったのか、どうして強力に推し進めたのか、そして敗戦、終戦の決断はなぜ下されなかったのか等々、昭和20年8月15日に至るまでの多くの回顧、反省すべきことが個人的には理解できていません。
メディアの情報は、悲惨な事実を被害者として観て、そして客観的にコメントしているように思えてしまいます。

果たして日本は被害者だったのでしょうか?
※誤解のないようお断りしますが、私は反日の立場ではありませんし、歴史、政治学者でもありません。
メディアの情報を観たり聞いたりしていると、事実には間違いありませんが、一部の側面だけの見識が増していくときがあるように感じます。
特にテレビの情報は、映像を伴うだけにその説得力は強いものがあります。自分の目、耳に同時に飛び込む情報は、疑う余地を忘れてしまい、間違いない真実だと即座に思い込んでしまいます。しかし、どんなことにも別の視点、側面があり、メディアの限られた時間、情報の中で全てを伝えるのは不可能なことです。
個人が認識することなので、最終的にはいろいろな捉え方になりますが、物事の本質、全体像を把握、理解するのはとても難しいことなんだと感じます。

話は、全く変わります。
「73」という数字を聞いて、アマチュア無線に関わる人にはどうしても思い浮かぶものがあると思います。
無線の交信にはかかすことができない符号です。定型的な挨拶として使う場合が多いですが、「さようなら」という意味だけではなく、他の多くの気持ちも一緒に含まれているように思っています。
「一期一会」に近い無線の交信では、また次回つながって、お会い(交信)できることを楽しみにしている気持ちを「73」に込めているように感じます。

8月7日に総務省から公表された数字によると、アマチュア無線局数の減少傾向は変わらないそうです。
「始めた理由」があれば、当然「辞める理由」もあるわけで、昨今の時代の流れからしてもこの数字は当然のことなのかもしれません。単純な分析では言えないことですが、それでもこの趣味の一員から言わせてもらうと、やはり寂しい数字です。できれば多くの人と交信したいですし、無線の楽しみを共有したいですから、たくさんの人に加わってもらいたいと願っています。

「辞める理由」の中には、「辞めたくなる、辞めさせられる」ような理由もあるような気がします。無線をしている人の中に「相手を辞めさせるような原因を起こしていないか」という懸念を感じています。
あくまで個人的な見解ですが、特に電話での交信では、希に不快、不愉快な会話を経験することがあります。もちろん、楽しい会話で爽やかな気持ちで終わることのほうが多いですが、たまに遭遇することは、逆に強烈な印象として長く記憶に残ります。
具体的な例は避けますが「なんでこんな会話をこの人としないといけないのか」と感じると、マイクを握る手が必然的に遠ざかってしまいます。
※余談ですが、個人的にQSO総数の90%以上はCWです。デジタルを含めると94%になり、電話(SSB/FM/AM)は6%程度です。
同じ趣味を楽しむ仲間として、同じ目線で情報を交換、共有し、電波を通して交信できることを楽しみ、そして再び会えることを願う気持ちが大切だと思っています。

「73」は終わりではなく、これからも長く続くことの願いだと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください